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プライベート

ベトナム・タイへの訪問2017 その1

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

本日はプライベートな話題です。
年明けにベトナムとタイへ行ってきました。

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メンバーは、家族と友人。
友人にお声がけしたところ、一緒に行きたいと手を挙げてくれたS君も一緒です。
(ちなみに、S君は数年前にカンボジアへも一緒に行きました)

昨年8月に航空券とホテルの予約をexpediaで取りました。
ベトナム航空を利用しました。

早めに5ヶ月前に予約をしたこともあり、航空券は1人5万円程度と割安に取得できました。
(もちろん、エコノミークラスではありますが)

航空券を予約した時は、真夏でしたし、ずいぶん先のような気がしたのですが、
月日が流れるのははやく、すぐに旅立ちの朝はやってきました。

私にとってはベトナムは7年ぶり、タイは10年ぶりの訪問となりました。
今回、ベトナムはダナンとホイアン、ホーチミンへ、
タイはバンコクとアユタヤに足を伸ばしました。

子供を連れての訪問だったので、忙しく周るというよりは、
ゆっくりペースでじっくりと楽しむような日程を組みました。

それでも近年開発されたダナンを今回はじめて訪れたり、
バンコクで旧知の友人と再会できたり、
ホイアンと、アユタヤという2つの世界遺産を訪れたりと、
振り返ってみると、意外とさまざまなことができました。

S君の存在も心強く、旅に彩りを与えてくれました。

とはいえ、初日の日本からの出国時に、いきなりちょっとした事態があり、
出国できるのか、ギリギリだったのですが。

その話は、少し長くなりますので、本日からいくつかテーマをわけて、
何回かのシリーズで書いてみたいと思います。

王ケ頭とバルセロナの朝日

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

本日は休日的な話題です。
突然ですが、朝日と夕日どちらが好きですか?

私は、夕日も好きですが、朝日の方が好きです。
夕日は終わってしまうはかなさがありますが、朝日は朝の始まる感じがたまりません。

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先日、長野県の美ヶ原に行ってきました。
写真は王ケ頭ホテルからの朝日です。

王カ頭は、日本100名山で2000メートル級の山なのですが、自分の足で登らなくても到達できる珍しい山です。
ホテルの車で一気に頂上まで登れます。
したがって、小さい子供がいても大丈夫です。

朝日と言えば、これまでに思い出深い朝日があります。

今から約20年前、35日間にわたる卒業旅行で大学時代の友人と男2人旅をしていた時のこと。
スペインのバルセロナに数日滞在しました。

2人とも走るので、朝、日の出前の暗闇の中、準備運動をして、ジョギングをしました。
サグラダ・ファミリア近くから出発し、ゴール地点に設定していた港に着いた時に、
ちょうど朝日が昇って来たんです。

海から上ってくる朝日を見た時に、(私の人生も)これから始まるんだという、
なんとも言えない感情が湧いてきたことを思い出しました。

人生90年を24時間とすると、生まれた時が0時、45歳でお昼の12時です。
日の出の頃の朝6時がが22.5歳ですので、
まさにバルセロナで見た朝日が、私の人生の朝日と重なった時でした。

バルセロナでの朝日を見た後の2ヶ月後には働き始めましたので、
私の人生という意味でもスタートラインの時刻でした。

王ケ頭にて朝日を見ながら、そんなことを思い出しました。
ギリシャのサントリーニ島で見た朝日と夕日も思い出深いものでしたので、
その話はまたいつかブログでご紹介します。

【悲報】東京マラソン、チャリティ枠も埋まる。。

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

先月のブログで、東京マラソンにチャリティ枠で出ようとしていたことを書きました。
しかし、早々と3000人のチャリティランナー枠も埋まってしまったようです。

チャリティ枠で出るには10万円出す必要があるのですが、
そこまでしても走りたい人が3000人もいるって、すごい事態ですね。

しかも募集締切が11月なのに9月の時点で埋まるって、
東京マラソンは完全にブランドになりましたね。

私は、クラウドファンディングしていて、応援してくださった方もいらしたので、申し訳ない気持ちです。
9月末くらいまで待って、そこまで集まらなければあとは自分で払おうと思っていたのですが、
9月下旬にはすでにチャリティ枠も埋まったということで、東京マラソンに出られないことが確定しました。

ただ、東京マラソンに出る予定で練習用にエントリーしていた「埼玉30K」という30キロのロードレースには出る予定でいます。
11月の上旬にありますので、東京マラソンは走れませんが、今シーズンは、埼玉30Kを本番として走ろうと思います。

ちなみに、走るための道具も進化していて、それはスマホアプリだったりするのですが、
また機会を見て、このブログで書いてみたいと思います。

熊本震災支援をどうするか?

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

熊本震災支援をどうするかについて考えています。

英国のカティサーク号が火災した時には、Tシャツをつくってその売上を寄付しました。
東日本大震災の時には、拙著『サードネットワーク』(技術評論社)の印税を全額寄付しました。

そして、今回の熊本震災なのですが、どうするか?

やはり、普通に寄付しても、カティサークらしくない、ということで、
東京マラソンで支援しようかと検討しています。

東京マラソンは、通常の抽選枠の他に、
チャリティ枠があります。

チャリティ枠は3000人と限定されているのですが、
最低10万円寄付すると、チャリティランナーとしてチャリティランができるのですね。

私だけが10万円を寄付しても平凡なので、
チャリティ枠をシェアしたいと思います。

たとえば、Aさんは1万円分を寄付します。
Bさんは、1000円を寄付します。
Cさんは、5万円分を寄付します。

このようにして全体として10万円以上の寄付を募ります。

最低10万円が集まらないと東京マラソンに出走できませんので、
もし、10万円が集まらなかったら、責任をもって私が10万円を超えるように寄付します。

ちなみに、ふるさと納税と同じように、税額が所得から控除されます。
なので、ふるさと納税している人にとっては、ふるさと納税同様に、
大きな負担感なく、自分で納税先を決められる感覚で寄付できます。

チャリティ枠に寄付してくださった方の想いを載せて、私が当日東京マラソンを走ります。

まだ未定ですが、当日は、「熊本支援」の何がしかをつけて走ります。

チャリティしてくださった方の枠も用意します。

たとえば、帽子や肩や背中に、寄付してくださった方のサービスのロゴでも、一筆書かかれた想いでもつけて走ります。

寄付金は100%、熊本支援へ寄付されます。

自分ではマラソンを走るのはアレだけど、熊本支援はしたいという方がいらっしゃいましたら、下記ページより支援が可能です。

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ありがたいことに、すでに支援いただいております。
想いをのせて走ります。

夏の避暑地仕事4(最終回):伊香保と草津

 

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( ↑草津の湯畑 )

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

今回は、夏の避暑地仕事の最終回です。
今年は、伊香保と草津に行ってきました。

昨年までは、1箇所に1週間の滞在でした。
2014年は軽井沢のペンションに1週間、
2015年は札幌に1週間でした。

2016年は伊香保も草津も同じ群馬県内ということもあり半々でした。

ちなみに、昨年は札幌に1週間だったのですが、
同じ札幌でも前半はairbnbを利用しての宿泊、後半はホテルに宿泊しました。

これにより、airbnbを体験しつつ、ホテルにも泊まれました。
1週間の間に2つを体験できる感じが良かったのですね。

今年2016年は、同じ目的地で宿泊施設を変えるのではなく、目的地自体を2箇所にすることにしました。

先日、家族でやりたい100のことを作りました。
その中に、「100箇所の温泉地に行く」というのがあります。
(「家族でやりたい100のこと」につきましてはまた別の回に書きます)

100の温泉地って、1年に1回行ったら、100年かかりますよね。
実現が難しそうです。

でも、1回で2箇所回ったら、50年で行けます。
また、それを年間2回行ったら、25年で行けます。
ぐっと現実的になってきます。

というわけで、今年の避暑地仕事は1週間の期間で、
ずっと1箇所だけでなくて、前半と後半で2箇所行ってしまうことにしました。

伊香保と草津、両方とも群馬県で、車で1時間半くらいです。

私は、伊香保も草津も初めてだったのですが、
連続して行くことで、比較できました。

伊香保と草津、両方とも温泉地として有名ですが、泉質はまったく違います。
色自体、伊香保は、茶色っぽい色に対して、草津は硫黄が入っていて白っぽい。

街の全体的な印象としては、伊香保は、こじんまりしています。
草津は、温泉だけでなく、スキー場もあり、サッカーのクラブチームもあり、リゾートの雰囲気があり大きめです。

どちらが良い悪いということはありません。
どちらも特徴があります。

今回の伊香保と草津のように、1度に2箇所以上を訪れるような機会を増やしていこうと思います。
来年はどこにいくか、これから検討していきたいと思います。

おすすめの場所がありましたら、お知らせください。

日本の8月に振り返る祖先のこと3(最終回)

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

9月に入ってしばらくたちましたが、本日は「日本の8月に振り返る祖先のこと」の3回目(最終回)です。

70年以上前のこと、志願兵で5年の任期を終えて、
日本に帰ってきていた祖母の兄の元に、召集令状が届きます。

再び戦場へ出征することになったのですが、
ここから先は、詳しいことはわかりません。

1つだけ明らかなことは、公式文書の下記の一文です。
祖母の兄が「昭和拾九年拾壱月三拾日時刻不詳ペリリニー島二於テ戦死」とあります。

「昭和19年11月30日にペリリュー島で戦死した」ということですね。

はじめからペリリュー島に従軍したのか、
戦地を転戦していて最終的にペリリュー島に至ったのか定かではありません。

ただ、「ペリリニー島」という聞き慣れない文字があったのですが、
2015年に天皇陛下がペリリュー島へ慰問したことでペリリュー島が全国的にも広く知られることとなった島だとピンときました。

「ペリリュー島の戦い」とはどんな戦いだったのだろうと、調べました。

NHKスペシャルの映像が、YouTubeに上がっていますので、下記に貼り付けます。

激戦の島だったようですね。

公式の記録では、ペリリュー島の戦いは、昭和19年11月25日に幕を閉じているようです。

祖母の兄が、11月30日に誰かに看取られて戦死したかどうかはわかりません。

計算をすると、32歳で亡くなったことになります。
その前に志願兵だった5年がありますから、20代の半ばから従軍していたのでしょう。

もし、生き抜いていたら何をやりたかったでしょうか。

ご冥福をお祈りいたします。

やはり、今、生きているということを考えると、
生きているだけで丸儲けですね。

先人たちの無念も鑑みて、
強くしなやかに生きていきたいと思います。

参考のため、ペリリュー島の当時の様子がわかるリンクを下記に貼っておきます。

ペリリューの戦い(NAVERまとめより)

夏の避暑地仕事:伊香保で中国人!? 2

 

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( ↑ 伊香保神社にあった松尾芭蕉の句の石碑 )

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

本日は夏の避暑地仕事の2回目です。

伊香保の宿でスタッフとして働いていた中国人の李さんと、
もう一度、話す機会が訪れました。

宿の出入り口で子供が遊んでいたら、李さんが、やってきたんです。

そこで、少し話しました。

李さんは、実は中国の大学に通う現役の学生。
大学では英語と日本語を勉強しているそうです。

そして、3年生の最後の7月に伊香保の温泉宿へ働きに来たということです。

中国では、9月から新学期が始まるので、今は4年生になっています。
12月くらいまでの半年間、日本で仕事をして、帰国する予定だそうです。

大学の方は、休学または、留年することになるのか気になります。

大学に通わなくても大丈夫なのかと聞いたところ、
4年生ではほとんど授業がなくなるため、休学も留年もせず、
そのまま来ているそうです。

3年生までに単位を取っていれば4年では授業がほとんどなくなるところは
日本と一緒ですね。

ということは!

日本で仕事をすることで、日本語力が上がり、給料ももらえます。
しかも、おそらくは、中国で働く何倍かの給与水準です。

さらに、日本語を勉強するのであれば、中国の大学で4年生を半年間するよりも、
その半年で、日本に来て働いた方が、よっぽど実践的ですし、経験も文化もわかっていいですね。

日本の「おもてなし」がどんなものか身を持って体験できるわけです。

ただ、なぜ伊香保のこの宿で働くことになったのかが気になります。

すると、この宿を斡旋したのは、李さんが通う中国の大学の国際交流センターとのこと。
大学が、海外の研修先を斡旋してくれるというのも面白いところです。

私も、大学2年の最後から3年生の前期の期間、上海の大学に半年間ほど留学をした経験があります。
大学は留年も休学もしたくなかったので、李さんと同じく、そのまま来ました。
3年次の4月に履修登録が必要だったのですが、大学の同じゼミの友人にしてもらって。

上海での半年間は、カルチャーショックの連続でとっても楽しくて身になることの毎日でした。
大学時代に経験できたことは大きかったです。

私の場合は、上海の大学へ留学したので、上海で稼ぐということはなかったのですが、
李さんの場合は、お金もしっかり稼いでいますね。

お金を稼ぐということは、その対価分のサービスを提供するので、責任が伴います。
ということは、真剣にならざるを得ません。
日本に来てまだ日が浅いからなんて言ってられないのですね。

身につくものも、単なる留学よりも多いのではないかと思います。

最後に、李さんに、将来、何をしたいのか聞いてみました。
将来は、中国で日本企業で働きたいといいます。

その想いは叶うのではないでしょうか。

夏の避暑地仕事:伊香保で中国人!? 1

 

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こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

先日伊香保と草津に行ってきました。
毎年おこなっている夏の1週間ほどを避暑地で仕事をするウィークです。

パソコンとネット回線があれば、どこでも仕事ができるので、この時期1週間だけ東京を離れます。
ちなみに、昨年は札幌、一昨年は軽井沢でした。
今年は、どこにしようかと考えて、東京からそう遠くない温泉地を選びました。

伊香保で宿に泊まったわけですが、チェックインしてロビーでウエルカムドリンクを持ってきてくれた人が「李」さんという人。
中国人だと思われます。

日本を訪れる中国人観光客の数が多いので、
この伊香保の宿でも中国人観光客に対応できるように中国人スタッフを抱えているのですね。
中国人へのサービスがしやすくなるというメリットがあります。

その李さんですが、私たちに「お茶アルヨ」と言って、お茶を差し出してくれました。

マンガやドラマの世界で、中国人が「◯◯アルヨ」と言っているシーンを見たことがあるのですが、
これまで、そんな固定観念的な中国人に接したことがありませんでした。

通常はもう少し日本語力があるので、「お茶です」と言うわけです。
「◯◯アルヨ」を、現実世界で本当に言われる日が来て、李さんに関心が出てきました。

おそらく中国だろうとは思いましたが、台湾という可能性もあるので、
「どこから来たんですか?」
と聞くと、
「中国です」とのこと。

さらに「中国のどこからですか?」と聞くと、
「河南省」。

北京と上海の間にある省ですね。

そして本題、
「日本に来てどのくらい?」
と聞くと、まだ「1ヶ月」でした。

そうか、日本に来て1ヶ月だと、まだまだ日本語力がないので、「お茶アルヨ」になるのかと妙に納得しました。

チェックインのウエルカムドリンクの時には、このくらいだったのですが、
その翌日、李さんと、もう少し話をすることになります。

そこで李さんがどのようにして日本に来ることとなったのかがわかります。
それは、少し意外で、興味深い経緯でした。

また、ブログでお伝えします。

日本の8月に振り返る祖先のこと2

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

9月に入りましたが、本日は「日本の8月に振り返る祖先のこと」の2回目です。

70年以上前の戦時中の話です。
祖母の兄が、志願兵として、海軍に所属していたことを知ります。
航空機の整備兵だったとのこと。

トラック島(現在のチョーク諸島)にも従軍していたそうです。

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この機会にトラック島について調べてみたのですが、
トラック島は、ミクロネシアの一部で、グアム島の南東に位置する島ですね。

現在なら飛行機で行けますが、当時は船ですから1週間くらいかかったのかもしれません。

海軍の整備兵ということは、零戦を整備していたのでしょうか。
(おもわず、映画『永遠のゼロ』のシーンを思い浮かべます。)

祖母の兄は、ここで戦争を体験します。

そして帰国します。
志願兵の任期が5年だったので、任期を全うして帰ってきたものと思われます。

どのような想いで祖国の地を再び踏みしめたのでしょうか。
万感の想いが去来したに違いありません。

帰国の際に、祖母におみやげを買ってきてくれたそうです。

それが、紅花色のハンドバッグ。

最近はあまり見かけることはありませんが、
昔よくあった、がま口型の財布というとイメージできる人も少なくないと思います。

あの、がま口型の財布を大きくしたようなハンドバッグだったようです。

私は、このハンドバッグを見た記憶はないのですが、
母の話によると、祖母は大事なものを入れて持っていて(しまっていて)、
少なくとも戦後半世紀、50年間くらいは持っていたそうです。

そして、一時帰国をして待機していた祖母の兄の元に、一通の召集令状が届きます。

その行き先が「ペリリュー島」だったのですが、
この話の続きは、またの機会にいたします。

日本の8月に振り返る祖先のこと1

 

こんにちは、カティサークの押切孝雄です。

日本のジリジリとした暑い8月は、終戦日とお盆があり、戦争を振り返る季節でもあります。
本日はプライベートな話です。

私の祖父は70年以上前に戦争を経験しています。
陸軍に所属し、終戦時には曹長を務めていた人物です。

さまざまな思いはあったのでしょうが、
私が子供の頃に戦争の話を聞いたことはありません。

私の妄想として、陸軍といったら、やはり太平洋に浮かぶ島の戦地へ行って、
そこで激戦の上、生きて帰ってきた帰還兵なのかと思っていました。
(今思えば、そのようなケースは非常に稀なのかもしれません)

そんな祖父も今から20年以上前、私が中学生の時に亡くなりました。

その後、しばらくして、私も社会人となり、実家に帰省した際に聞いてみると、
祖父は、日本国内で従軍しており、終戦を迎えたそうです。
陸軍で通信部門に配属されていたそうです。

配属が日本だったので、生き残ったのですね。
それを聞いて、少し拍子抜けしましたが、納得しました。

思い込みというのは怖いものですが、
生き残ってくれたおかげで、私がいるわけです。

現在、私がインターネットの仕事をしているのも、
通信兵だった祖父からの系譜、あながち偶然ではないかもしれません。

私の中で、多くを語らなかった祖父は、今もずっと英雄です。

そんな中、昨年、山形の実家へ帰省していて、過去の記録を紐解いているうちに、
祖母の兄が、戦地に赴いていたことを知ります。

そこに「ペリリニー島」という文字を発見します。

「ペリリニー島」?
これは、「ペリリュー島」のこと?

この話の続きは、また時期が来ましたら、このブログで書きます。