世界の他の国の状況を知らなければ、
人生の戦略も立てられないと思いました。
そこで、まずは手始めに、中国へ行きました。
海外だったらどこでも良かったのですが、
ちょうど大学1年生の夏休みに北京大学に1カ月の短期留学できる機会があったので、
それに乗りました。
1994年当時の北京は、まだ街の中を馬車が走るなど、
すさまじく発展途上でした。
北京の学生と話していて、
私が「大学何年生ですか?」と聞くと、
彼女は5年生だと答えました。
中国の大学は4年制だと聞いていたので、
留年したのかと聞くと、1年間は、軍事訓練だったという答えでした。
1989年の北京でのできごとを受けて、
一部の大学では、学生を教育するために1年間の軍事訓練を義務づけたということでした。
日本の大学生は、遊んでいても卒業できるので、
彼らが経験した1年間の軍事訓練のことを想うと、
とても複雑な気持ちになりました。
海外を知りたいと思って、中国やアメリカに行ったけれど、
結局は自分が生まれ育った日本のことを良く知らないという事実を思い知らされました。
そんななか、思想で影響を受けたのは、ピーター・F・ドラッカーです。
オーストリア生まれの経営学者です。
社会に対して何らかのサービスを提供することで、
社会的に役に立ちたいと強く思いました。
そこで目にしたものは、
カリフォルニアの大学生が作ったらしいホームページでした。
内容自体は、そのアメリカの学生のプロフィール的なことが書いてあるだけの
シンプルなものだったのですが、
そんなことよりも、インターネットというものを通じて、
世界につながっているということに、非常に大きな衝撃を受けました。
私にとっては、世界の国を訪れて、現状を知ることと、
ドラッカーとインターネットの影響が大きかったです。
自分でもホームページ制作をはじめたのも大学時代でした。
ゆくゆくは、自分の会社を設立したいと思っていましたので、
数年で社長が交代するサラリーマン社長の会社ではなく、
自分で創業したオーナー社長の会社に就職できたことはラッキーでした。
また、上海に留学して、上海の方々にはお世話になったので、
その恩返しがしたいと思っていました。
当時、入社した会社が上海に世界一の高さのビルをつくるという
プロジェクトを推進していましたので、
その仕事に携わりたいと思って入社しました。
入社前の面接でも中国語を話してくださいと言われたので、
中国語で志望動機などを話しました。
上海のプロジェクトに配属されるだろうと思っていました。
(これは、情けないほどうぬぼれた私の思い上がりですね)
私は、その仕事に直接は携わることができませんでした。
1997年ころから上海経済が停滞し、
プロジェクトがペンディングになったのが原因でした。
やりたい仕事ができないことに、初の挫折を味わいました。
(いま思えば、そんなこと挫折のうちに入らないのですが)
その後、数年してプロジェクトが本格的に動きだしました。
2008年に上海の浦東地区にそのビルが竣工する予定ですので、
現在は外部の人間ではありますが、楽しみにしています。
・経営とフィナンシャルの知識を身につける
・語学力を身につける
・専門知識を身につけるということを目標にしていました。
総合的に判断し、入社3年目の時に、会社を退職し、
海外に留学することにしました。
事業は起こすまでは、心理的に不安な要素もたくさんありましたが、
起こしてしまえば、あとはやるべきことをやるだけです。
仕事がたくさんあって、迷っている暇がなくなります。
クライアント企業様がハッピーになる方法を考えて、
実施するだけです。
そのことが社会貢献につながっていたら、最高だと思います。
事業を起こす分野はおおいに迷いましたが、
学生時代からインターネットのホームページ制作に携わり、
ディベロッパー時代にも個人的にホームページを作り続けて、
英国留学時代もWEBサイトを運営しロンドンの最新情報を日本の方々に提供していたこともあり、
インターネットという分野で社会貢献を目指すことを決めました。
といっても、今後数百年続く長いインターネットの歴史では、
まだまだはじまったばかりです。
黎明期には、どんどん環境が変わります。
昨日まで最新だったことが、明日は古くなるような業界です。
昨日までのホームページの成功パターンが、
明日は必ず成功するとは言い切れないくらい環境の変化が速い業界です。
だからこそ、自ら現場に飛び込んで、
自ら経験し、成果の上がる方法を見いだしていく必要があります。
成功パターンはどこかに既にあるのではなく、
また、誰かが教えてくれるのではなく、
自ら切り開いていく必要がある業界です。
昨日まで正しかったノウハウを繰り返すのではなく、
自ら率先して、成功パターンを生み出していきたい。
お客様と一緒に考えて、一緒に試し、
成功パターンを見いだしていきたい。
インターネットのソリューションを通して、
これまでも、そしてこれからもクライアント企業様に価値を提供してまいりたいと思います。
この間、素晴らしいでき事が次々と起こりました。
Googleが提供している無料のツールを活用すれば、誰でもマーケティングができるというものでした。
広く受け入れられ、新宿紀伊国屋の本のランキングで2位になったり、重版を重ねました。
六本木ヒルズで講演する機会に恵まれました。
そこから、毎日新聞社さんからお声がけいただき、
2冊目となる『実践グーグルマーケティング』(毎日新聞社)が2009年に発刊されました。
さらに、2009年は『グーグル会議術』(技術評論社)、
『YouTubeビジネス革命』(毎日新聞社)も発刊され、出版ラッシュの年となりました。
『グーグル会議術』は、会議術とありますが、Googleなどのツールを活用することで、
仕事やプロジェクトを効率的にする内容をまとめました。
知っているか知っていないかの違いだけで生産性が変わってくるという状況でしたので、
その方法を仕事やプライベートに活かす提案を書籍でまとめたわけです。
当時の私は、年間3冊を書きつつ、雑誌ににも寄稿しつつ、
WEBサイト制作部門とWEBマーケティング部門をするという毎日でフル稼働しており、
1分でも無駄にできないような日々でした。
譲れないモノ
時間が限られていても、絶対に譲れないものがあります。それは健康です。
健康がなければ、何もできません。
私の場合は、事務所から数分のところにある皇居を走るのが健康を維持する方法でした。
やはり走ってみると有酸素運動の効果で頭がすっきりします。
走り始めたのが2006年で、すでに5年がたっていました。
健康が目的なので速く走るのではなく、心地良いと感じる速度で
皇居1周(5キロ)を走ります。
この時に初めて東京マラソンに当選します。
(東京マラソンは、倍率がだいたい10倍で、10年に1回程度当選するのが普通です。)
東京マラソン当日、生まれ故郷の山形県のお米「つや姫」のTシャツを来て完走しました。
走っている時に、多数の声援を受けました。
「山形がんばりましょう!」と言われて振り返ってみると、
モンテディオ山形のユニフォームを着た人がいたりしました。
これは本当に力になりました。
人は人から勇気づけられるのです。
うまくいったことは方法論があります。
それを伝える会で、楽しみながら仲間とともにうまくいくように設計しています。
はじめてから数年もすると、
これに来ている人が、テレビに出たり、出版したりする人が複数出てきました。
そんな中、2015年に訪れた台湾でであったことが私を新たな想いに駆り立てました。
出会った人物とは、八田與一です。
出会ったといっても、100年前に生きていた人物です。
八田與一を知っている日本人は多くないかもしれません。
台湾では教科書にも載っていて、誰でも知っている偉人です。
嘉南大圳という台湾中南部の荒れ果てたエリアにダムと灌漑設備をつくり、
恵の大地に変えた人物です。1930年に竣工しています。
ダムと灌漑設備は竣工から80年以上経ちますが、今でも台湾の人に恩恵を与え続けています。
100年後の人にも利益をもたらし、尊敬される人です。
私はこの事実を知って、完全に感動しました。
起業したのが2004年ですので、今年で12年になります。
(有限会社に会社化したのが2005年)
私は今、現在41歳です。
八田與一のような人でありたいと思っています。
WEBマーケティングでできることは、果てしなく大きいです。
情報空間と物理空間を相互に行き来して、
現在のクライアント企業の繁栄と、
20年後、50年後を生きる未来の人たちにも恩恵をもたらすことを成し遂げていきたいと思います。
人生まだまだ1合目であり、後世の人に利益をもたらし感謝される人物でありたい。
想いを同じくする人たちと、これからも精進してまいります。
2016年3月2日
カティサーク 代表取締役 押切孝雄
2016年から2024年までの8年間について、書きつないでみたいと思います。
2016年ころに考えていたこと
前回、八田與一のことを書きました。
八田與一は、嘉南大圳にダムをつくりましたが、
私にできることはなんだろうと考える日々でした。
また、「20年後、50年後を生きる未来の人たちにも恩恵をもたらすことを成し遂げていきたいと思います。」
と書きました。
人生は短く、健康寿命が80年だとすると、
あと自分が直接的に社会貢献できるのは40年ほどです。
仕事を通してと考えると、60歳までの20年ほどです。
この頃に子供が生まれたということもあり、
子供たちの世代が、今よりも住みやすい社会であってほしいと
リアリティを伴った実感として思うようになりました。
この世界は、人がつくっていることを実感し、
個人としては、これからの若い世代への支援を通して、
社会貢献できる人を作ることだと考えるようになりました。
カティサークのコンサルティングの見地からは、
2017年は、『デジタルマーケティング集中講義』(マイナビ出版)も上梓できました。
時代背景として、ビッグデータやIoTと言った言葉が耳目を集めており、
企業も「デジタルマーケティング」に取り組む時期でした。
2018年、2019年と仕事は、クライアント企業と一緒に、
デジタルマーケティングの施策を一緒に取り組み、やりがいを感じながら、
プライベートでも実に平穏な時期を過ごしました。
プライベートで家族で海外に何度となく渡航できて、たくさんの思い出を作ることができました。
自分の周りは、楽しく過ごしています。
充実した人を育てたいという想いが強くなっていきます。
コロナ禍とデジタルの普及
そんな中、2020年にコロナが襲います。
ZoomやTeamsを活用したテレワークが急速に進行します。
5G通信の広がりとも相まって、デジタル化が社会へと一気に普及していきます。
2021年には、『デジタルマーケティングの教室』(マイナビ出版)を出版します。
また、2021年からは、戸板女子短期大学にて、専任の大学教員を務めることになります。
カティサークとの2足のわらじとなります。
企業の世界で行われている実践的なデジタルマーケティングを大学でも深く教えたい。
さらに、若い世代と直接的にしっかり向き合って、1人1人を成長させたい。
この2つの想いがあり、企業と教員どちらか一方ではなく、両方を同時に取り組むことにしました。
短大では、学生の成長を見守ることができました。
ただ、短期大学は2年間と短く、あっという間です。
4月に入学してきた学生は、その年の11月には、就職活動をはじめて翌年4月くらいには内々定をとるというようなスケジュールです。
勉強にじっくり取り組むスケジュールではないのですね。
その後、2023年4月より、文京学院大学 経営学部の准教授になりました。
文京学院大学は、2011年から非常勤講師をしていますので、なじみのある大学です。
人を育てるという意味で、ゼミ生をもち、学生の成長を目の当たりにしています。
2年生が3年生にになり、1年前にできなかったことができるようになります。
学生は、チームで研究をしてリテラシーを身につけるだけでなく、
人としても、おもいやりや協力してやり遂げることを体感しながら身につけていきます。
大学では、学生に大学時代だけの成長ではなく、
卒業後も自力で成長できるように指導をしています。
そして、30歳になる頃に、一角の人物になってほしいと思っています。
そのために、大学生のうちから、自立して自分たちで自発的に学んでいけるようなゼミの運営方法を取っています。
人は、大学に入った時がゴールではなく、
大学に入ってからが勝負です。
そこから、自分で学んでいける力を身につければ、あとは自走していけます。
私の場合は、大学時の20歳の時に、30歳までに起業すると決めて、10年間取り組みました。
そして、29歳で起業しました。
今、2024年は、カティサークを創業してからちょうど20年となります。
どんな人でも、何か目標を決めて、10年間あれば、何かに到達できると考えています。
その時に重要なのは目標です。
目指すものが決まっていなければ、どこへも行けません。
学生と話していると、目標がないという学生が思いの外多いことに気づかされます。
目標を持つと、人生が充実しますので、どうやって学生に目標を持たせるかは現在の課題です。
研究活動
大学は教育とともに研究活動も重要です。
2024年2月には、マーケティングの総本山ともいうべき、アメリカのマーケティング協会 AMA(American Marketing Association)が主催するの学会発表会を見に行きました。
そこで、英国留学時代の恩師との再会や新しい出会いがありました。
やはり、人との出会いで人生は変わっていくものです。
研究という意味で、2024年4月からは、大学院にも通いはじめました。
挑戦者として、世界の人々に役立つことを目指した研究に取り組みはじめています。
また、お話できる機会があればと思います。
2024年8月5日
カティサーク 代表取締役 / 文京学院大学 経営学部 准教授
押切孝雄